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生涯の一転機とし日記果つ みのる


月並みな話題になるが人の生涯においてターニングポイントになるシーンは何度かある。

今がまさにその時と感じるときもあるけれども、たいていは来し方を振り返って、

“あのときがそうだったかもしれない…”

と思うことのほうが多い。

負いきれないかと思うような試練にも耐えて何とか乗り越えたられたこと、あるいは不本意な方向へ舵を切らざるをえなかったこと、そのときどきは、必死に自力で頑張って走っていたつもりだった。

けれどもたいていの場合、家族の応援や友人の助けが陰で支えてくれていたことにあとで気づかされる。物質的な支援もありがたいが、背後でずっと祈ってくれている人がいるということがどれだけ感謝なことかと思う。

どれだけ名誉を築きあげても、またどれだけ財を貯えても、所詮人は一人で生きてはいけないと思う。そんなものよりも、家族や仲間という人間関係が何にもまさる宝物だということを言いたいのである。



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ミサの鐘ひびき黄落急ぎけり みのる


散歩道にある公園の大公孫樹もすっかり葉を落として天辺に青空が透けている。

名所の燃えるような紅葉もわるくはないけれど、目立たない場所で人知れず散りつぎながら大地を覆っていく大公孫樹の黄落のほうが私の好みです。

散っても散っても尽きることがないかと思われるころが一番美しい。やがて次第に疎になっていく梢をうち仰いでいるとゆったりとした季節の移ろいを感じる。

ぎんなんは、老化防止によいそうで漢方薬では、肺の働きを高め、喘息を鎮める効果があると言われているそうだ。

神社などにある古木はたくさん実を落とすので、近隣の主婦たちが拾いにこられる。これもまた里の風物詩としてゆかしい。

近年植栽される園芸用の銀杏の苗木は、実が落ちるのを嫌われてみな雄木ばかりだという。

なんだか寂しい。



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舎利塔の霊やすかれと山粧ふ みのる


JR広島駅の北側に見える二葉山の仏舎利塔は1966年(昭和41年)世界の恒久平和を念願し、原子爆弾の犠牲者の冥福を祈るために建立されたという。

とても特徴的な形をしていて紅葉した山の頂上に白銀のごとく尖る姿はとても印象的だ。

あの日から六十数年というときを経て街の風景や自然もすっかり復興した。昭和後期、平成と平穏な時代がつづき、この平和は永遠につづくものだと思うくらい幸せだったのに、昨今の世界情勢を見聞きしていると俄に不安が募る。

「天に唾する」ということばがある。

最近の若い人たちは、このことばを本来とは違った方向に使うむきがあるらしいと聞いた。それは、

「自分より上位に立つような存在を、冒し汚すような行為をする」

という意味なのだそうだ。

いかなる理由があろうとも、人間と人間が、国と国が諍うことは決して神様が喜ばれることではない。信仰論はともかくとして、天地万物の創造主であられる神様に背く某国の言動、また強硬手段に訴えてそれを抑圧しようとする動き、いづれも「天に唾する」行為と同じだと思う。

その結果は必ず自らに帰依し破滅への道につながることは明白で、世界の歴史がそれを証明している。

幼子でもわかるようなこんな簡単な原理になぜ気づかないのか不思議でならない。